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前節で立ち入って論じたように、現代若者の愛情生活では、「親密性パラダイム」という言葉に代表されるような自由化が進行しており、それに伴っていくつかの問題が前景化していた。しかしこうしたことが強調されることは少なく、「おたく」のように愛情生活に適応的でない人がいたら、その当事者の心理が批判されることが多い。 「おたく」に関しては、宮崎勤の幼女連続誘拐事件の影響もあり、「おたく」とはペドフィリアであり、誘拐などの犯罪と結びつきやすいという観念がある。そうした犯罪が起こると、犯人は「おたく」なのではないかと言われたりする。しかし、斎藤や本田透が再三に渡り繰り返すように、「おたく」はむしろ犯罪からは遠い。というのも、「おたく」は虚構のキャラクターを愛するので、危険を冒してまで実在の人物に手を出すとは思えないからである。 他方で、「「おたく」は現実から逃避している」といった批判がある。少し長くなるが、「おたく」への批判がよく表れている室井佑月による文章を引用する。 小説と映画で大ヒットした『電車男』が、ドラマ版でも高視聴率をマークしつづけているとか。 そして、雑誌などがこぞって『オタク』について取り上げはじめ、あたしはなんだか心配になってきた。 だって、その取り上げ方、「これからはオタクの時代だ」みたいなものなんだもん。で、内容はオタクにインタビュー取材するだけ。「今、なにに填っているんですか」みたいな。 ねえ、いいの。そんなにオタクをモテはやしちゃって。 オタクでいいのは一部だよ。芸術家や研究者となって成功している人間だけでしょ。 女からしたら、最高とゴミ、それがオタクの世界である。その現実をきちんとオタクに伝えないと。それがマスコミの仕事だろうが。 信じられない。少子化問題を扱っていた同じ雑誌で、オタクをモテはやすなんて。 一部のオタクに親切に教えてやるけど、ドラマのオタクは君らの仲間じゃないからね。大勢の人々の鑑賞に堪えられるよう作られたオタクなんだから。 実生活ではちゃんとモテてるだろう俳優さんがオタク役をやっていて、メークさんもついてて、スタイリストさんもついてて。 そういった現実から目を逸らしちゃならない。 がしかし、ほんまもんのオタクは、あたしの意見なんぞ「フンッ」ってな感じなんだと思う。 そもそも一般論に耳を貸さず、我流で生きているのがオタクだからね。 だっから、アニメのTシャツを堂々と街で着るやつがいたりするんじゃん。 「気持ち悪い」とか、「恥ずかしい」とか、絶対に一度は親切にまわりからいってもらっているはずである。でも、聞かない。 マスコミの役目はそういった意固地なオタクをこんこんと説得するところにあったと思う。なに反対のことやってんだか。 どうする? アニメTシャツを着ているオタクが、雑誌の記事を鵜呑みにして、 (俺に彼女がいないのは、たまたまなんだ) とか生意気なこと考え出したら。 (運命の人が現れるのを、ひたすら待てばいい) なんて余裕をぶっこきはじめたら。 アニメTシャツを脱がなきゃ、女が当たるわけないんだよ。変わろうという気持ちがなきゃ、一生童貞のままでいる率は高いね。 数年後、安易にオタクをモテはやした雑誌を出している出版社は、「話と違うじゃんか」と童貞たちに恨まれ、火をつけられることも覚悟しておくべきであろう。 話は変わるが、リメーク版『赤いシリーズ』、あっちの視聴率はほとほどだったんだって? リメーク版は観ていないけど、子供の頃に観たやつは覚えている。たしか百恵ちゃんが骨肉腫になったり、記憶喪失になったりするの。今考えれば乱暴な設定だけれど、とても面白かった。 ってことは、『電車男』こそ、現代版『赤いシリーズ』だってことね。オタクが完璧な美女と? ありえねー。[傍点は筆者による](室井 2005) 「虚構のキャラクターを愛する人々」という本論文での定義からも明らかなように、この「現実から逃避している」という批判は基本的に当たっている。いくら虚構のキャラクターを愛するからといって、現実の人物をないがしろにするのはよくないことだろう[*26]。しかし、現実から逃避することそのものは、悪いことではない。本田透が主張するように、一人で大人しくアニメを見たりすることは、批判されるべきではないだろう。ましてや、「おたく」の人たちにとって現実が耐えがたいものであるなら、そこから逃避するのは自然な対処だと言える。激痛を伴う手術には麻酔を用いるように。それに、「はじめに」でも記したが、「おたく」ではない人も、「おたく」的な活動をしている。本田透のように、最初は異性とのコミュニケーションを避けていたわけではないのに、嫌な体験を繰り返すことによって避けざるを得なくなったのも本人が全て悪いのだろうか。前節で見たように、現代では愛情生活の自由化が進行し、彼のように嫌な体験をすることが増えていると推測される。 「おたく」は恋愛をするための努力をしていないと批判される。誰にでも恋愛は可能であり、そしてすべきであるという幻想が支配しているので、恋愛ができるようになるために絶えざる努力が要請される。今現在は恋愛をしている人には、それを維持すること、あるいは複数の恋愛をすることが説かれる。しかし誰でも、いつでも恋愛をしていることはあり得なく、本当は無理なことを追い求めているので、「がんばらないようにがんばる」といったような、矛盾するメッセージが送られることになるのではないだろうか[*27]。 [*26] 「おたく」は、電車の中など所構わず自己中心的に振る舞うというイメージがあるが、やはりそれはよくないと思う。 [*27] 巻末資料の図6「恋愛が成功するための矛盾するメッセージ」を参照。
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まずはじめに、「現代討魔帖」とはTRPG(テーブルトークロールプレイングゲーム)という遊びの一つとして作られた遊びのルールです。 TRPGとは、大雑把な言い方をすると「ルールがあるごっこ遊び」みたいなものです。この表現では語弊を招くので別の言い方をしますと、「キャラクターになりきって、TRPGの世界で遊ぶ」ゲームです。 ……これだとまた別の誤解を産みそうなので補足しますと、なりきりと言ってもキャラクターの台詞を再現して遊ぶ必要性はありません。 例えば、キャラクターが宿敵と戦うシーンで2人のプレイヤーを例にしてみましょう。 A:「てめえだけは絶対に許さねえ、勝負だ!」 B:私のキャラクターは、敵に怒りを示して勝負を挑みます。 Aはキャラクターの台詞を演じているのに対して、Bはキャラクターがどのような感情を抱いているのかを説明していますね。 これはAとBでロールプレイ……キャラクターの役割を演技する方針が違うだけで、どちらもキャラクターになりきってゲームの世界で遊ぶという点では同じです。 なので、これからTRPGで遊ぶ人は各々自分にあったロールプレイのやり方を見つけて遊ぶといいと思います。 どこかで見たルール ネット掲示板の文芸作品に詳しい方には気づかれているかもしれませんが、本ルールは「やる夫系雑談・避難・投下板(やる夫板)」で掲載されているスレッド 「【聖杯戦争TRPG】Fate/IRC研究所【やってます】」 にて「トトロ ◆w27VVw9x氏」が公開している聖杯戦争TRPG「Fate/IRC」という、「Fate/staynight」の三次創作TRPGを源流とした、四次創作TRPGとなります。 四次創作ではありますが、戦闘ルール以外は独自の世界観・ゲーム進行となっているため上流となる作品を遡って把握する必要はありません。 とはいえ、上流の作品は本TRPGを遊ぶ上でも参考になる作品であるため、確認しておいて損はないと思います。 著者 天平(Twitterアカウント名@tenpyo11)
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網膜音楽とは、いとととが提唱した現代4コマの周辺概念のひとつ。レティナミュージック、Retinal musicとも表記される。 概要 本人曰く、網膜音楽とは「目で見て音を感知する音楽」であるとのこと。名称の着想源は「隣り合った色を網膜で混ぜ合わせる」とも説明される印象絵画特有の描画法、筆触分割に由来すると考えられる。 解説 網膜音楽の試みは、ある特定の楽曲を連想させる絵を提示することで、その独創性が浮き彫りとなる。鑑賞者は視覚から得た情報が脳へと伝播した途端、聴き馴染みのある旋律が頭の中へと流れてくるかのような体験をすることとなる。 「ベートーヴェンの4コマ」 いとととの代表作ともいえる「ベートーヴェンの4コマ」を例に挙げる。縦に4つ並んだベートーヴェンの肖像画は、コラージュのように切り取られたり、縦横比を大きく歪められたりしている。ここで画像中に記されたタイトル「運命を思い付いた瞬間」を見ることで鑑賞者の思考はベートーヴェンと一体となり、その脳内には交響曲第5番「運命」の冒頭、「ジャジャジャジャーン」という印象的な旋律が想起されることだろう。聴いていないのにメロディーが流れてくるこの体験を得られることは、「目で見て音を感知する音楽」たる網膜音楽の神髄に他ならない。 またこの芸術は、音楽クリエイターは楽譜を見ることでその曲のメロディーを把握できる可能性があるという事実─言い換えれば彼らは音楽記号を網膜の中で混ぜ合わせ、音を知覚しているということだ─を思い出させてくれる。網膜音楽において、楽譜や歌詞は別のモティーフへと高度に置き換えられている。これによりクリエイターほどの知識と技能を持たない者でも、「見て音を感知する」という体験の機会を得ることができる。網膜音楽はサウンド・アートの次なる段階への移行を告げる、画期的なイリュージョニズムとなるだろう。 網膜音楽は「サウンド・アート」か? 実際には音など発していないものが「サウンド・アート」たり得るのか? という疑問をお持ちの方もいるかもしれない。しかし考えてみてほしい。もとより言葉や文字、そして音楽は何か特定の「もの」や「こと」の形象を持たざるとも、それを見聞きした鑑賞者が表現者の「伝えたい『もの』や『こと』」を知覚するための媒体、いわば「言語」ではないだろうか。 「りんご」という文字列は実際のりんごと同じ形象を持たないし、ベートーヴェンの「運命」という題が指す事象にはかたちすらないだろう。絵画においても同様のことが言える。先に触れた筆触分割は、パレットではなく鑑賞者の網膜で色を混ぜ合わせるよう仕向けることで、塗られているものとは違う色を知覚させるものだ。これは絵のモティーフが、表現者と他の人との「共通言語」となっているからこそ可能となる。 人間は得てして都合の良い知覚、そして錯覚をする生き物だ。恣意的な文字列や旋律から「運命」を感じ取ることができるし、「絵の印象」から描かれた風景の雰囲気を認識できる。網膜音楽は人間の知覚におけるメカニズムを巧みに利用した、「言語」の新たな形態なのである。 網膜音楽の課題 楽譜を見て旋律を知るには音楽を学ぶ必要があるのと同じく、「言語」が鍵となる網膜音楽は鑑賞者がそれを知らないと伝わらないという問題がある。またひとつの「言語」を見聞きした全員が同じ思考の経路を辿るとは限らない。モティーフの選定やその表現方法には芸術家の技量が問われる。 また網膜音楽に関する論考で取り上げられているように、現時点での網膜音楽は原典のある音楽を再現する芸術に留まっている節がある。ゆえに網膜音楽の「新曲」を生みだす必要があるだろう。 動画投稿サイトへの進出 2024年2月27日、網膜音楽がニコニコ動画の地を踏んだ。投稿者はいととと。 「ベートーベン『運命』交響曲第5番 第1楽章」 「ベートーヴェンの4コマ」の静止画を8分5秒間にわたり、無音で映し出す作品となっている。「ジャジャジャジャーン」以降の旋律も引き出さんとする意欲が感じられる。この作品の視聴により緊張感溢れるハ短調のメロディーすべてが想起されるのか、あるいは「ジャジャジャジャーン」のみがリフレインするのか。485秒続く動画(?)の中に散りばめられた「言語」を理解できるか、と聴き手の技量をも問うてくる極めて挑戦的な試みである。 この作品を視聴してあなたが感じたことはぜひコメントに残していってほしい。その言葉は次なる鑑賞者への指針となり、網膜音楽をより総合的な現代音楽へと進化させることに繋がるだろう。 なお第1楽章の演奏時間について検索すると、多くの場合約7分程度と記載されている。いとととの作品において8分を超えているのはなぜか? その意図ととは不明となっている。 関連 『現四通信2024年1月号』,現代4コマ批評選集「運命を思い付いた瞬間」, 視力評 サウンド・アート4コマ 網膜音楽に関する論考
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ニコニコ動画/ニコニコ動画の歴史現代編 2009-06-11 ニコニコ動画の歴史現代編 ニコ厨とニコ厨の騎士団 ニコニコ動画の歴史現代編 ニコ厨と炎の夏休み ニコニコ動画の歴史現代編 ニコ厨とランキングの囚人 ニコニコ動画の歴史現代編 ニコ厨と秘密の年末 ニコニコ動画の歴史現代編 ニコ厨と賢者のZIP ◇◆『ニコニコ動画』へ
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これも4コマとは、現代4コマにおける試みの一つ。2022年の実験期に登場した。 概要 Twitter(現X)上において行われてきた、いとととによる試み。一般ユーザーの投稿した文章や写真を引用リツイートして「これも4コマ」「4コマだ」とやかましく指摘し、気づかせるというものである。残念ながら彼は作成をしては都度投稿を削除しているため、現在ではその一部しか伺うことはできない。 本当の日常系4コマやレディ・4コマの前身・一形態でもあるが、他人の切り取った風景や要素を更に定義しなおす試みであることが特筆できる。既に投稿として作成された存在を、4コマという概念で上書きし、4コマを意識させてしまうこの行為は、ヴァンダリズムにも近いものと言えるだろう。
https://w.atwiki.jp/goukakutuuti2009/pages/339.html
名古屋外国語大学 現代国際学部 2-828
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【このページの最後へ】 散文詩4コマとは、散文形式の文章において4コマを視覚的に取り入れた作品群の総称。物質派。精神派の「散文4コマ詩」とは区別される。 【物質派、精神派とは?】4コマ詩のページへ 目次 概要 作品一覧 関連 概要 4コマを物質として捉え、散文詩の中へ視覚的に4コマを組み込む。散文は広義には「普通の文章」を指す。この概要文も散文と言えるだろう。散文詩は散文形式で書かれた詩のことであり散文=散文詩とは言えないが、現代4コマ作品である以上は詩であるものとして扱い、物質派の場合は「散文詩4コマ」と呼称する。 作品一覧 「しりとり」リタ伯爵作 「54字の物語」のフォーマットに則って作成されている。カタカナの「ロ」が横並びになるよう調整されているほか、最後の行がコミュニケーショ「ン」で綺麗に終わっており芸術点が高い。(トウソクジン評) 【目次へ】 関連 4コマ詩 散文4コマ詩-精神派4コマ詩 【このページの最初へ】
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現代4コマにおける考えの一つ。旧来4コマがコマごとに異なる表現や展開を配置しているところに着目し、同じ形の同じ存在が並んでいるだけのゴミクズは4コマとみなさず、全てのコマが異なる姿をみせている必要性を説く。 概要 旧来の4コマからなぜ大衆が4コマを4コマとして認識するのか、という考えに立つと、全てのコマにおいて「異なる内容」が記載されていることがわかる。これに基づき、全てのコマには変化が必要だとする。無機質に変化のないコマの連続する作品は1コマと変わらないというわけだ。 カテゴライズ、塗り分け主義などは同じ色の物体複数個を一にまとめる考えが知られる。これは、内容が異なれば異なるコマ、内容が同じであれば同じコマというカウント法をとっている。これも個別主義の一形態といえるだろう。 ゴミクズの例 正しい4コマの例
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プレイレポ/BtS/必然の現代戦/その3 微妙に立地のおかげもあるが、天帝で戦えてることに尊敬。教育スピードどうするんですか?スパイ? -- 最終戦争かどう巻き返すんだろ -- AD1750のスーリヤヴァルマンがキモすぎるw AD1806の滅亡組二人、遺影になってようやくまともな表情になった…… -- ところで掩体壕ってなに? -- [掩体壕(えんたいごう)は、航空機を敵の攻撃から守るための格納庫。 -- 途中送信スマン。だからバンカー -- ありがとう。 3.19MODは嬉しいんだけど、このあたりが分かりづらくなった気がする…… -- 訳の変化は「Solver s unofficial BtS 3.17 patch 日本語化」の影響であって3.19MODだと変わらないよ -- ついにタイトルの意味が、楽しみにしてますー -- 核以外の現代戦はめずらしい、楽しみにしています -- 拡張志向でも近代の衛生には苦労するのなー。そして最終決戦!? 機械化歩兵で守りつつ宇宙に行きたいけど、制覇フラグの立ってるブーディカからは逃げられないのか。 -- ブーディカがマオちゃんの方に行くことはないか・・・次回、期待して待っています。 -- まだ蛮族生きてるんだ -- AIがいつものジョアンみたいに割り込んできたら、スパイ工作拠点に丁度いいんだがな -- 毎度指導者の顔グラ選択がいい味だしてる --